幼少期、父親から理不尽に怒鳴られ殴られた記憶が心の傷になり、今なお苦しむ30代女性の相談を読売新聞の[人生案内]で読みました。何がいけないのかと聞いても、ダメなものはダメと、何の説明も無く納得のいかない中で幼少期を過ごしました。唯一頼りになるはずの母親も見て見ぬふりでした。大企業で定年を迎え、子ども4人を育てたことに感謝しつつも傷は癒えることが無く、年老いていく父をどう理解すべきか心の整理がつかないようです。
30代になり社会的に自立しても、ふとした瞬間に疼く思いは簡単に拭い去れるものではありません。親が老いていく姿を目にすればするほど、忌まわしさがフラッシュバックしますが、それは決して心の弱さではないことを理解して下さい。
相談者は「なぜ怒られたのか」と理由を求めても、返ってきたのは「ダメなものはダメ」と隷属的な服従でした。さらに、本来盾になってくれるはずの母は沈黙を選んだ。その沈黙は、子どもにとっては“裏切り”にも等しく映ったことでしょう。
例えば、「ある家に、強風から家族を守るはずの大黒柱がありました。しかしその柱は、家族を守るどころか、内側に向かって揺れ、家族を押しつぶしていた。では壁はどうだったか。壁は「柱が倒れたらもっと大変」と恐れ、何も言わず支えるふりをした。結果として、家の中にいた小さな子どもだけが、常に不安にさらされたのです。」
父は恐怖で支配し、母は沈黙で従った。もし家庭がそのような構造だったとしたら、問題は相談者一人の受け止め方ではなく、「家の構造」そのものに問題があった可能性があります。
だからこそ、心の整理のために事実確認は意味があります。
・母はなぜ助けなかったのか
・あの時、何を感じていたのか
・兄弟は父をどう見ていたのか
これは父を裁くためではなく、「自分の記憶を確かなものにする」ためです。トラウマは曖昧さの中で増幅します。記憶を言葉にし、他者の記憶と照らし合わせることで、自分だけの思い込みではなかったと確認できる場合もありますし、逆に新たな視点が見えることもあります。
ただし、確認は“準備が整ってから”です。再び傷つく可能性もあるため、心理的距離を保つことが前提です。
そしてもう一つ大切なのは、「理解」と「許す」は別だということです。
父が大企業で働き、4人の子を育てた事実と、家庭内での暴力は別問題です。功績が暴力を帳消しにすることはありません。人は皆、やがて人生を終えます。しかしその評価は他人が決めるものではなく、最終的にはその人自身の人生の総決算です。父も母も、そして相談者自身も例外ではありません。
過去は変えられません。けれど未来の態度は選べます。
父と向き合うなら、親子としてではなく、「一人の人間として」対峙することです。
一定の距離を保ち、是々非々で語る。
感情ではなく事実で話す。
受け入れられないことは受け入れないと明確にする。
それができないなら、距離を取る選択もまた成熟です。
暴力は教育ではありません。
沈黙は中立ではありません。
その事実を胸に刻みながら、相談者は「被害者」で終わる必要はありません。父の生き方を反面教師にし、「自分はどう生きるか」を主体的に選ぶことができます。
心にトゲが刺さっていることを認め、そのトゲを抜く勇気こそが相談者自身の第一歩なのです。

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