家族が亡くなったあと、「お墓をどうするか」という問題は、思いのほか大きな重荷となります。父が「墓はいらない」と語り残した一方で、母は「墓を建てたい」と願っている。長年、介護を一身に背負ってきた姉は、その思いを叶えたいと考えています。
けれど妹である自分は、墓の維持や将来の子どもへの負担を心配し、夫婦では樹木葬を選ぶと決めています。これは、いまの日本で多くの家庭に共通する悩みではないでしょうか。
お墓には二つの側面があります。一つは「心の拠り所」としての側面です。古代から石は「災いを防ぎ、安寧を守る」と考えられ、平安時代には公家や高僧が五輪塔に祀られました。五輪塔はインドの五大思想をもとに、地・水・火・風・空を表し、極楽浄土を願う形でもありました。
現在でも、お盆やお彼岸に墓前に立つと、亡き人へ報告や感謝を伝えられる場所としての意味を感じる方は多いでしょう。しかし同時に、墓は「現実の負担」としての側面も抱えています。建立費用や管理料は決して小さな金額ではなく、いずれは墓じまいに多大な手間と費用がかかる可能性もあります。
姉が亡くなったあとの遺骨を誰が守るのか、妹夫婦がいなくなった後はどうするのか──墓を持つ以上、こうした問いから逃れることはできません。だからこそ、姉妹で冷静に話し合い、姉の生活や資産に無理がないかを確認すること。そして、自分たちの「墓に対する考え方」を率直に伝えることが欠かせないのです。
では、お墓や供養の本質とは何でしょうか。お盆の起源とされる仏陀の十大弟子の一人である「大目連(だいもくれん)」の物語は、その答えを示しています。地獄に落ちた母を救いたいと願った大目連が仏陀に相談すると。
「生前の行いによる結果地獄に落ちて餓鬼となった母を哀れに思った大目連が、神通力でご飯を届けましたが、母がそれを食べようとすると、たちまち灰になってしまったのです。」「大目連は、仏陀に尋ねました。」「母が地獄でお腹をすかせていたので、ご飯を供養すると、炭になってしまいました」「大目連よ。おまえだけが母親を救えないのではない。
天界のあらゆる神々が努力しても、母親を救うことはできないであろう。なぜならば、おまえの母親は、生前、非常に物惜しみをする人であったからだ」大目連の母親は、お坊さんが来ても布施をせず、殺生の心も持っていたのです。「これは生前なしたことの結果なので、たとえ、子供であるおまえが、わが弟子となり、悟って神通力を持ったとしても、救うことはできないのだ」
「因果の理法」について話をした仏陀に、大目連は訊(き)きました。「世尊、因果の理法については、よく分かりました。しかし、このままでは、あまりにも母が哀れです。何か救ってあげる方法はございませんでしょうか」すると、仏陀が言いました。
「それならば、一つだけ方法を教えよう。僧侶の雨季修行の最終日8月15日に花や食べ物を供え、大勢の比丘(正式に出家した男性修行者)で声を合わせて、亡くなった者を供養し、その幸福を祈ってやれば、救うことができる」これがお盆の起源と言われています。
つまり、供養は形そのものよりも、「亡き人を思い続ける心」にこそ意味があるのです。墓石を建てることも、樹木葬や納骨堂を選ぶことも、すべては供養の心をどう形に託すかの違いに過ぎません。大切なのは、家族が心を通わせ、「私たちはどのように弔い、家族同士がつながりを残していくのか」を語り合うことです。
現実的な費用や将来の負担を見据えながら、同時に「先祖への感謝をどう表すか」を考える。その対話の中にこそ、家族にとって最も納得できる答えが見えてくるのではないでしょうか。お墓を建てるか、建てないか──その答えは一つではありません。けれど、姉妹で互いの思いを尊重し合いながら現実と心の両面を見つめていけば、必ず「自分たちにとっての最良の供養の形」が見つかるはずです。お墓をめぐる対話は、単なる墓石の有無を超え、「死後もなお家族はどうつながるか」を問いかける大切な時間なのです。
読売新聞の[人生案内]親の墓巡り姉と意見割れる」を題材に、幸福の科学金沢支部ホームページからも引用しChatGPTで編集した個人のブログです。
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