コロナ禍の修学院離宮は300年前の幕府と朝廷が張り詰めた中で造られた2020

2020年11月23日の拝観当日

コロナ禍に絶好のチャンスと思い3か月前に申込んだ参観日がアッという間にきた。11月23日9時からの参観は20分前から受付が始まり、近くにある唯一のコインパーキング「りっきゅうさんパーキング」にようやく30分前に停めることができました。

下見をしたとき、住宅地の中に10台もスペースがあれば余裕だと思っていましたが、当日2台しか空いておらず思わず胸をなでおろしました。そそくさと参観申込み書をもって受付に向かいましたが、もし空いていなかったら参観出来なかったかも知れないと思いました。

門に進むと向かって右側に事前予約した人が並び、左側には多くの当日拝観希望の人が整列していました。
売店がある待合室にいる間に、コロナウィルスを遮るためにと思い、思わず、修学院離宮でしか売っていないという「懐紙」を買い求めました。拝観者全員が広場に集合すると、数十人の人を先導する案内人が注意事項を次々と述べ、最後に「途中退場できません」の合図で、最後尾の監視人と共に隊列が動き出しました。

「参観申込みに関するお知らせ

受信トレイ kyotosankansys@kunaicho.go.jp

8月2日(日) 11:00 To 自分 〇○〇〇様
この度は参観にお申込みいただきありがとうございます。

抽選の結果、ご希望の日時にて参観が「許可」されましたのでご連絡いたします。
参観許可の内容を下記URLより確認してください。

参観通知確認        : https://sankan.kunaicho.go.jp/permit/login?locale=ja
なお、このメールはシステムにて自動発信しておりますので、
メール発信元へ返信することは出来ません。

お申込みいただいた内容は以下のとおりです。

—– 参観場所・参観日時 —–

【参観場所】        : 修学院離宮
【参観日時】        : 2020(令和2)年11月23日 09:00
【許可番号】        : 011520088
【参観人数】        : 2人
【団体名】           : 〇○ 〇○

—–<< ご案内 >>—–

(当日について)
・記載された参観場所・日時が間違いないかご確認ください。

・当日はこの参観許可書を持参してください。なお,印刷できない方は受付の際,
 係員に許可番号をお知らせください。

・参観は係員が誘導ご案内します。

・20分前から参観受付を始めます。参観時間に遅れると参観をお断りする場合が
 あります。

・本人確認をする場合がありますので,参観者は身分証等を携帯してください。

・修学院離宮ならびに周辺には駐車場はありません。

・約3キロの苑路を参観します。途中,坂道を上っていきますので、
 歩きやすい格好で参観されることをおすすめします。

・参観される際は,マスクの持参・着用をお願いいたします。

・入門時には非接触型体温計で検温を実施します。
 体温が37.5℃以上の方,体調の優れない方及び感染が拡大している国・地域への
 来訪歴が過去2週間以内にある方については入場・参観をご遠慮願います。

・工事中(令和2年7月頃~令和3年3月)につき、下離宮(寿月観)は
 ご覧いただけません。ご了承ください。宮内庁京都事務所長

参観受付場所:修学院離宮 (075)781-5203
叡山電鉄 修学院駅下車 徒歩20分
バス停 修学院離宮道下車 徒歩15分(駐車場はありません) 

修学院離宮の見晴らしは江戸時代、建物は幕末の遺産

「修学院」の呼び名は、10世紀後半の8世紀から12世紀の平安時代に、修学院というお寺が建立されたのが始まりと言われています。14世紀の南北朝時代には、すたれて無くなりましたが、地名として修学院村の名前が残りました。

修学院離宮は、桂離宮より約30年後の17世紀中頃の江戸時代に、日本の第108代天皇後水尾上皇(ごみずのじょうこう)の山荘として、上皇自身の建築・庭園の設計により一木一草(いちぼくいっそう)にいたるまで思いを込め造られました。現在、宮内庁管轄になり下離宮・中離宮・上離宮とその周辺の水田畑地までも買い上げた広大な土地を現在に至るまで景観を保全しています。

この広大な土地の一部でも民間が運営したら、京都の商業ベースはさらに発展していたかもと思いながら、先導する案内人の説明に耳を傾け全体行進を続けました。恐らく、修学院離宮ができた時代背景がこの地形と景観を物語っているのかと、歴史の一コマに想像を馳せました。

幕府と朝廷の緊張感の最中に人目を忍び造られた

絶景の紅葉を期待していましたが、歩き出すと途端に松の緑一色に期待が裏切られた思いでした。

1603年徳川家康江戸幕府を開くと、江戸を本拠地とした幕府と藩の幕藩体制が日本を支配する武家政権が始まり、閑散とした江戸は長きにわたって発展しました。修学院離宮1655年から1656年にかけて造営工事が行われました。

1611年に後水尾天皇が即位した4年後に大阪冬の陣、大坂夏の陣を経て大阪城が落城し、豊臣氏は滅び幕府が一国一城令を出し、武家諸法度(ぶけしょはっと)において諸大名を統制しました。さらに、幕府は朝廷の行動を制約する禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を規定した時代でもあり、後水尾天皇にとっては幕府や庶民に知られまいとした緊張感の中で修学院離宮は建造されたように思いました。

後水尾天皇、光子内親王、徳川和子の思いとは

後水尾天皇の第八皇女(おうじょ/娘)の光子内親王(てるこないしんのう)は、東福門院(とうふくもんいん)である後水尾天皇の皇后(正妻/中宮)徳川和子(とくがわまさこ/徳川秀忠の五女で徳川家康の内孫)の養女となり、内親王宣下(ないしんのうせんげ)の地位を与えられました。

中離宮にある光子内親王のために建てられた山荘楽只軒(らくしけん)に、東福門院が亡くなった後に、女院御所の建物の一部を山荘に移築、現在の楽只軒の東南に階段でつながれ客殿と共に拡張されました。楽只軒には、狩野探幽の子供、狩野深信の桜の絵や紅葉の絵が描かれています。

客殿には、随所に飾り金具に葵の紋が彫られ、徳川幕府から嫁いだ東福門院の権威が示され、また、安土桃山時代の狩野宗家5世狩野永徳に学んだ狩野祖酉(かのうそゆう)の長男である東福門院の御用絵師だった狩野信政の子供、狩野敦信が杉戸に描いた祇園祭りの絵や、丸山応挙の筆の跡があるとも言われています。

後水尾上皇の崩御の後、光子内親王は林丘寺を開き仏門に入ったと言われていますが、これだけの庭園を後世にまで残したことは偉業だと思いましたが、庶民感覚からかけ離れた世界がいつの世でもあるのかも知れないと思いました。