ホスピタリティを知った原点は奥能登ペンションだった2021

1978年(昭和53年)に大学を卒業し、新入社員で入社した11月、
23歳になってすぐに結婚しました。

最初の勤務地が石川県の能登半島で、
富山市内から100km以上も離れた奥能登へ毎日車で通っていました。

仕事は、能登半島にある10軒の公立病院を新規開拓することでしたが、
1年間成果が出ず毎日走るだけの日々でした。

夏場は海岸線を走る県外ナンバーの車やバイクによくすれ違いましたが、
冬ともなると、ひっそりとした海辺には人影は無く、
岸壁を乗り越えてくる波に、恐怖さえ感じながら走る毎日でした。

営業車に新車のスターレットが支給され、当時テレビコマーシャルに流れていた、
ラリードライバーの神様アンダーソンを真似て1日200kmを疾走していました。

300k近く走る時は宿泊の許可がおり、流行のペンションに泊まることが出来ました。
ペンションは中年のバイク族や、恋路海岸を目指す若い女性達で賑わっていました。

当時の奥能登ペンションは、オープンして10年位の草分的存在だったと思います。

オーナーは、「癒しを求め、何百キロも先から、奥能登を目指すんですよ!」と、

誇らしげに話していたように思います。

今思えば、フィールド・オブ・ドリームスの野球場を目指すシーンに重なる思いです。

8部屋?のペンションは、1年を通じて関東方面からの客で賑わっていたように思います。

ペンションには毎夜ギターを抱え、コーヒーを飲みにくる地元のお兄さんがいました。

金沢から130km離れた陸の孤島にある漁師町のペンションは、

都会のオアシスだったのかも知れません。

当時、奥能登ペンションのオーナーは、GHQが保養施設として接収した、

また、吉田茂元首相が来館した、更に昭和天皇・皇后が食事を摂るなど、

栄華を極めた湯涌温泉の白雲楼ホテルの子息だと本人から聞いた記憶があります。

東京に事務所を構える現役のカメラマンでもあったオーナーは、

陸の孤島の「奥能登ペンション」を、旅行会社やマスコミに紹介し、

あらゆるチャンネルを使って集客ルートを多方面に確保していました。

記憶が確かであれば、ペンションの前の道を「奥能登シルクロード」と名付け、

出版社に道の由来を投稿し、集客方法の一つとして情報発信していました。

「御陣乗太鼓も、過疎化対策の地道な活動の結果、無形文化財に指定された」

「例え、史実の断片でも命名することで、歴史のロマンが人を寄せつける」と言っていたように思います。

「一つに固執するのは愚かなり」が口癖だったオーナーは、

ある時「おにぎり部隊」を作って、父兄達と一緒に学校行事に参加していました。

地元客をペンションに呼び込む為の地域戦略の一つでした。

ペンションは建物を始め、テーブルや椅子など安価な什器が多かったように思います。

多面的な高い集客率と、確実な返済計画に基づいた経営戦略だったようです。

退職後夫婦が空き部屋を宿泊施設とするPension(=年金)を実現したのかも知れません。

いつも笑顔で朗らかに話しかけるオーナーがいるペンションはとに角居心地が良かった。

足の不自由なオーナーは、ホテルに滞在しプールで過ごすことが好きなようでした。

その経験が客が好むホスピタリティを、ペンションで実現出来ていたのかも知れません。

客がジムやプールを共同利用できる新たなペンションリゾートを開発中と教示され、

現在のペンションを、オーナーとしてやってみないかと誘われたことがありました。

悩みに悩んだ末、「やります!!」と言いに行ったオーナーの、奥さんの最後の質問が、

「宿泊業は、好きですか!」でした。

ペンション経営は2足の草鞋を実践するための手段であり、

奥能登ペンションは修行の場として考えていました。

朝早くから晩遅くまで客に接する仕事は、自分の性分で無いことは分かっていました。

親身に引き留めてくれる上司のお陰もあり、定年まで勤め上げることができましたが、

ホスピタリティとは何か?について、その本質を考えるきっかけになりました。

そのことで多くの成果を上げ、結果として多くのホスピタリティを経験できました。

いま自分に出来ることは何か?を考え一つずつ実践することで結果に繋がりました。

ホスピタリティは得ることより与える方が、本当は喜びが大きいのかも知れませんね。

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