大変なこと幸運なことを振り返り、未曾有の震災を乗り切る2021

「大変だったこと」

◆携帯電話が繋がらず同僚及び家族の安否確認がとれず、電話を待ち続けた時間。

◆携帯電話のメールが長時間遅れて届くことが多く、待つだけの時間が多かった。

◆一事が万事情報を得る術がなく、津波も3時間以上経過しようやく把握できた。

◆原発事故に対して放射能被害を理解出来ず、報道内容に偏りがあった気がする。

◆地震と津波の情報ばかりが先行し、原発の避難指示や退避行動の指示がなかった。

◆未曾有の震災でも、被災地から遠い地域では現地の危機的状況を把握出来なかった。

◆現地で放射線測定器により危険を感知しても、現地の人と情報共有が出来なかった。

◆未婚の男性と女性社員を、放射能汚染地から異動させ50歳代男性を交代要員にした。

◆タワーパーキングの安全確認が出来ず、復旧作業に1ヵ月以上要し車が出せなかった。

◆至るところでガソリンスタンドに長蛇の給油待ちを見かけガソリン車の限界を感じた。

◆全国から頂いた義援金の処分と割振りの対応マニュアル作成と承認手続きに疲労困憊した。

◆都市ガスの復旧は、開栓にガス会社社員立ち合いが条件のため1ヵ月以上時間かかった。

◆断水が原因でトイレが詰まり、悲惨な光景が未だ脳裏から離れず、トイレ恐怖症が強い。

◆マンションは地震保険に入っていなかった、転勤先でも保険に入っておくべきだった。

◆飛び交うヘリコプターの騒音が不安を増長させ、未だ不気味な感覚に陥ることはある。

◆たん笥と天井の突っ張り棒が、強度が弱い天井では効果がないことを初めて認識した。

◆駅は何となく安全な印象があったが、落下物が多く、駅構内は危険な場所だと認識した。

◆いつどこにいても、ここは海抜何メートルか、高さ何メートルか意識するようになった。

◆いま地震が起きたら、どこに逃げ込むか最新の高層ビルを確認しながら歩くようになった。

◆地下街にいる時、どこに非常口があるか探しながら、目で追いながら歩くようになった。

◆オフィス街を歩いているときは、最新の頑丈そうなビルを探しながら歩いている。

◆エレベーターが最新式かどうか違う階のボタンを押し2度押しで解除されるか確認する。

◆高速道路のサービスエリアで遭遇したとき直ぐにガソリンを満タンにし食料を買い込む。

◆夜、入浴中に地震に遭遇し、停電したときを想定し、戸口付近にランタンを設置した。

◆夜、地震に遭遇したときを想定し、ランタンとヘッドライトを人数分設置した。

いつ起きるか分からない、いつ、どこで遭遇するかわからない、それぞれの場面を想定し思いつくことを一つづつ行動に起こしている。どういう行動が最も安全かを日頃から家族で話し合う機会が必要だが、いつの間にか忘れてしまっている。当たり前の有難さに感謝したい。

「幸運だったこと」

❶一時避難できた旅館

3月11日金曜日2時46分の地震から2時間後、13日14日2日間旅館を予約することができた。食事付きを期待したが流石に2食付きのプランは無かったが、暖かい布団があり風呂に入れたことが幸運だった。泊まることが出来なかったら、冷たい大理石の上で5日間避難生活を送っていた。公衆電話使えたが携帯は通じなかった。インターネットが繋がったことが何よりも幸運だった。

・宿泊できたラドン温泉天龍閣は、仙台駅から西へ2km行ったところにあり、歩いても30分ほど行けるところだった。地震から3日目の日曜日、天気のいい日だった。街中を歩いていると1000年に一度の巨大地震がきたとは思えなかった。14階のマンションは足の踏み場も無い状態だったが、次々襲ってくる余震に耐えながら一晩中部屋の後片付けをしていた。停電で掃除機は使えないものの、コロコロガラスや瓦礫を吸着でき大変重宝した。勤務先に強粘着のコロコロがあって幸運だった。

・旅館は、伊達政宗候の墓所である瑞宝殿のすぐ近くにあった。旅館は建物にも家財にも何の被害も無かった。戦国大名の墓所の近くにあり、旧帝国大学の東北大学病院も2km先にあった。この地域一帯は高台にあり岩盤がしっかりしており、被害は殆ど無かった。引き続き余震は続き大きく揺れるひが続いたが、たまたま予約した宿泊先の地形が頑丈で建物の揺れが無く幸運だった。

❷引越しした事務所

東日本大震災が起こる半年前、事務所を仙台駅付近に引っ越していた。以前の事務所はプレハブの2階だったが、書類がぎっしり詰まった11本のスチール製の書棚は明らかに倒壊していた。津波の浸水と床の落下で1階と2階の従業員に犠牲者が出ていたと想像すると幸運としか言えなかった。

2008年6月岩手宮城内陸地震、2005年11三陸沖で地震、2005年8月宮城県沖で地震、2003年7月に宮城県北部、2003年5月宮城県沖と立て続けに地震があり被害が出ていた。だからこそ、津波がくることは誰しもが想定できなかった。最新設備のビルに引っ越しても、いつ起きるか分からない地震に対し最善の備えは必要だと思っていた。スチール製書棚の固定、大型テレビを台座ごと固定し下敷きにならないよう全て業者に依頼し頑丈に固定した。また、机の上に物を置かない、床にも物を置かない、壁にも何も張らない殺風景な事務所も幸運だった。逃げる時、散乱した書類に足を取られ怪我することも無く、ペーパーナイフ、ハサミ、カッターで怪我することも無かった。更には、停電で自分の手足が見えない手探りの状況でも誰もつまずき怪我することは無かった。

❸東北の温泉に驚愕

電気が止まり、ガスが止まり、水も出ない生活は人生初めての経験だった。誰しもが経験出来ないことを体験しインフラの有難さを痛感した。震災直後2.3日経ってから始めて津波の被害を目の当たりにし茫然自失だったが、時間が経つにつれ欲求が変わってきた。1000年に一度の天変地異直後は、身体が省エネモードになり食欲は無かったが、まだ寒い日が続く中、暖かい風呂に入りたいと思った。

恐山、岩木山、八甲田山、十和田、秋田焼山、八幡平、岩手山、秋田駒ヶ岳、鳥海山、栗駒山、鳴子、

肘折、蔵王山、吾妻山、安達太良山、磐梯山、沼沢、燧ヶ岳の、電気も必要ない、ガスも必要ない、水も必要ない、源泉かけ流し加水・加温なしの温泉があることに気付いた。

被災者への復興支援で、東北各地の温泉に入浴できる制度ができ、方々の温泉を巡り、源泉かけ流しの加水加温なしの素晴らしさを体感することができたことが何より幸運だった。「温泉」は、豪華な建物に、豪華な食事、大浴場に大露天風呂がついた、大型リゾート地のイメージでしたが、東北の温泉につかり24時間いつでも入浴できることがこんなにも素晴らしいとは知りませんでした。2食付きでビジネスホテルより安く泊まれる旅館も数多く、リッツカールトンのクレドにも勝る宿が至るところにありおもてなしの極意を学んだ気がしました。金曜日の晩に泊まり月曜の朝出勤するまでに至り、在宅で仕事ができれば最高だと思っていました。

非常持出し袋は収納ボックスに!地震と津波から命を守る!!2021

毎年3月11日が近づくと、「備えあれば憂いなし」と新聞やテレビ、ネットに装備品が異なる「非常持出し袋」の広告が賑わう。非常持出し袋に可能な限り詰め込めば、快適な避難生活が送れるかのように捉えてしまう。確かに、あの非常時に持出すことができれば幸いなことかも知れないが、どこに設置すれば持出すことができるか、2時46分の経験からその設置場所を考えておく必要があると思った。

立っていることが出来ない震度7の揺れは、床に這いつくばったまま、けたたましい警報音と室内の物がぶつかる音に怯えながら、ひたすら揺れが収まるのを待つだけだ。

何回も襲ってくる地震に、今度また大きな揺れがきたら、自分の家が自分のマンション倒壊するかも知れないという不安が急に襲ってくる

一刻も早く、その場から逃げ出そうと携帯を探すが、テーブルの上に置いてあったはずの携帯はどこにも無い。倒れた重いテレビを跳ね上げ、テレビの下を探すが無い。アンプもスピーカーも跳ね上げたがそこには無い。

食器やコップが割れた食器棚の下にあるかも知れないと、食器棚の下を探すがそこにも無い。

足の踏み場が無いぐちゃぐちゃの床に新聞や雑誌の下に挟まっていた。もう少しで踏んづけていたところだ。早く外に出ようと、玄関に向かうが、玄関の花瓶が割れ、クツや傘が散乱し靴が見当たらない

「火事です!緊急です!直ちに避難して下さい!」

と止むことがない警報音とサイレンが鳴り響く最中、冷静に「非常持出し袋」を
持出すことができる人は何人いるのだろうか。

確実に持出すには、どこに設置した方がいいか?普段からどこに非常持出し袋を設置して置くのがベストなのか、もう一度、当時の状況を振って考えてみた。

●テレビを片手で持ち上げると、ブラウン管の内側にヒビが入っていた。

●吊り下げていたペンダントライトが壁や天井にぶつかって粉々だった。

●食器やガラスのコップが割れ食器棚の扉も引き出しも飛び出していた。

●砂糖や塩、調味料の瓶や缶が散乱、醤油瓶が戸棚から落ち破壊された。

●ナイフやフォーク、スプーン、鍋、やかん、包丁全てが飛び出ていた。

●電子レンジ、炊飯ジャー、トースター、ミキサー等が破壊されていた。

●冷蔵庫から瓶や缶、冷凍食品が飛び出、牛乳がこぼれ卵が割れていた。

●コップのガラスの破片や、湯飲みのかけらが、床一面に散乱していた。

●新聞や雑誌、郵便物、ペンやハサミ等の文具が床一面に散乱していた。

●便座の蓋が外れ便座も歪みコンセントが外れペーパーが散乱していた。

●倒壊したたん笥から、全ての引き出しが飛び出、衣類が散乱していた。

●室内の物干しにかけてあった洗濯物が、ぐちゃぐちゃに散乱していた。

●下駄箱に仕舞ってあった全てのクツや傘が飛び出玄関が散乱していた。

この光景以上に、非常ベルと緊急のサイレン、そして「火事です!救急です!直ちに避難して下さい!」のスピーカーから流れる警報音と、鳴り響くサイレンの音に、心臓の鼓動が激しくなった。今が、まさに緊急事態だということを、これでもか、これでもかと恐怖心が襲いかかってきた

当然ながらエレベーターは停まっている。余震が続く最中、必死に携帯を探し、非常階段を駆け下りた。

耐震構造の建物は、壁に亀裂が入ることで、建物の倒壊を回避する。非常階段の金属部分が剥がれ突起物で手を怪我する危険があった、革の手袋は必須だと思った。また、ビル上部から予期せぬ落下物の危険性があったので、ヘルメットも必須だと思った。最後に、出来れば防寒着を着て逃げるべきだったと思った。

数分間続く震度7の揺れのなか、家の中は既に足の踏み場が無い。非常持出し袋を背負って逃げるより、身の安全を確保することで精一杯だった。

非常持出し袋は、津波や建物の倒壊の心配が無ければ、揺れが収まってから家に取りにいけばいい

逃げるときにどうしても持って行かなければならない物もある。その場合は家の外の安全な場所に「収納ボックス」を置いて、その中に仕舞っておくしかないと思った。

高齢者がいる世帯、幼子がいる世帯などでは、「オムツとおしりふき」「哺乳瓶と粉ミルク」「匂い消しのビニール袋」「乾パン」など、排泄処理に必要な物等々を特に保管しておく方がいいと思った。

家の外の収納ボックスに保管するのは、面倒で出費もかかり、現実的では無いように思うかも知れないが、その非現実に対応するには、収納ボックスに仕舞っておくことが必要だと思った。

親のしつけが命を守ってくれた!2時46分の地震と津波から2021

寝る前の習慣!地震と津波から・・・

小さいころから、寝る前に「明日、着る服をたたんでから寝なさい」と母親に言われていた。65歳になっても未だ寝る前に服をたたんでから寝る習慣がある。朝起きて考えるのが面倒なだけだが、ずーっと欠かさずやってきた。

まさに、その習慣こそが親の躾だったのかもしれないが、東北地方では、津波がきたらいつでも逃げられる備えとして、何世代にも渡って親から子へ、自らの命を守る躾として伝えられていた。
やらなければならないことは直ぐにやる、先延ばしにしないことが大切な教えのようだ。特に、嫌なことは立ち向かうと嫌なことが半分になるが、逃げると倍になる教えにも繋がっているようだ。

靴をそろえる!地震と津波から・・・

津波がきた地域では常に逃げることを意識して、「靴を脱ぎっぱなしにしないで、きちんと並べて置きなさい」と今でも子供に教えている。逃げるとき直ぐに靴が履けるよう、咄嗟に行動出来るように躾けしている。

小さいころ家に来たおじいちゃん、おばあちゃんが、家に上がる前に、脱いだままの靴があると、必ず揃えてから上がり框(かまち)を上がっていた記憶がある。津波対策では無いものの、人を出迎える神聖な玄関は、清潔さを保つ習慣があった。

そのせいか週に数回、雑巾で玄関を拭くことが習慣になっている。親から玄関を雑巾掛けしなさい!と言われたことは一度もなかったが、母親が雑巾がけしていた記憶がある。お陰でいつも気分爽快で運気もいいようだ。

人の話を聞く!地震と津波から・・・

避難所ではデマ情報が氾濫し、人々を振り回すことがあるが、「津波が町を襲った」と、口伝えに聞こえてきていたが、地震発生から3・4時間後に映像を見て衝撃を覚えた。

避難所はどよめいた。その中に、親兄弟を探し現地に向かおうとした若い女性がいた。「電車もバスも止まっているはず。暗い中歩いて向かって貴方が怪我でもしたら元も子もない。明るくなって、状況を掴んでから行っても遅くはない」と避難所に押しとどめた。

幸いに翌朝まで一緒に避難所で過ごした。人の話を聞く姿勢があってこそ自らの行動を律した。彼女は正しい判断をしたと確信するが、普段であれば理屈に合わない話は常識的に判断できるが、非常時はそうはいかない。チョット反れるが、「人がしゃべっているとき口を挟むな!」と、小さいころ兄から叱られた記憶がある。それ以降、無口になった気がするがお陰で聞き上手になったようだ。

ご飯粒を残さない!地震と津波から・・・

幸いなことに、小さいころ腹が減った記憶がない。ひもじい思いをさせないよう、母親がすぐにおにぎりを握ってくれた記憶がある。腹が減ったときは「手間ひまかけず直ぐに食べさせることが大事」と言ってたような気がする。

避難所では、余震の合間、家から持ち寄った食べ物を皆で分け合って食べたことが思い出される。パンにハムを挟んだだけのサンドイッチを作ってきた人が、「あり合わせの物で作ってきたので味は保証できませんが・・・」と言われて食べたサンドイッチ、本当に美味かった。

まさに、母親と同じ思いだったのかも知れない。小さいころに「ご飯粒を残さず食べなさい!」と言われた記憶はないが、多分、おじいちゃんから「物を大切にしなさい」言われたいた気がする。僅かな食べ物を分け合って食べたことに感謝の気持ちで一杯です。

神仏に手をあわせる!地震と津波から・・・

産まれた時から手を合わせる習慣があった。小さいころ、目と鼻の先にある母親の実家で報恩講が行われていた。誰かのひざの上で僧侶の経と法話を聞いて育った。お昼お参りに来た人たちに朱塗りの椀に精進料理とおにぎりが振舞われていた。

人を弔(とむら)う時に唱えるのが念仏だと思っている人が多いようだが、実際は、生かされていることへの感謝として唱えていることが多い。

テレビの特番では、10年目にして未だ現実を受け入れられず、立ち止まったままの人が多いようだ。誰もが順番に還って逝く身であればいいが、色んな約束事で思い通りにはならないようだ。小さいころから、心のよりどころがある人は幸せかも知れない。神仏に手を合わせ、自然に念仏することができる環境で育ったことへ感謝しかありません。

整理・整頓・清掃・清潔・躾5Sで救われた!地震と津波から・・・

整理・整頓・清掃・清潔・躾の5Sは、職場のルールや規律を守ることが業績貢献への秘訣と言われているが、地震や津波などの危機的震災のときにこそ、人の生命を守る最善の手段であった。

事務所では書棚もテレビも倒壊の危険のあるものは壁に固定し、人が下敷きになる被害を避けることが出来た。机の上には、使う物だけを置く習慣が紙の散乱を防ぎ、ペーパーナイフ、ハサミ、カッターが人を襲う状況を避けることが出来た。

父親の背中をずっと見てきた結果が、まさに、従業員を守ったと思った。躾とは、生涯において正しく生きる生き方導く道しるべ(道標)だったようだ。整理⇒Sort(分類する)整頓⇒Set in order(正しい位置に置く)、清掃⇒Shine(輝く)清潔⇒Standardize(標準化)躾⇒Sustain(維持する)。5Sはどうすれば維持できるかが大きな課題のようだ。